
★要点
2026年7月14日、「GLOBAL NATURE POSITIVE SUMMIT 2026」で、「ランドスケープやコミュニティを核としたネイチャーポジティブ・アクション」をテーマとする座談会が開かれた。
登壇したのは、インド・アーンドラ・プラデーシュ州首相のN・チャンドラバブ・ナイドゥ氏、熊本県の木村敬知事、アルメニアのムヘル・マルガリャン大使。モデレーターは、持続可能な地球のためのグローバル・アライアンスのサティア・トリパティ氏が務めた。
インドでは、女性の自助グループを基盤に、化学肥料や農薬へ依存しない自然農法が8,168の地域へ拡大。熊本では、企業に地下水採取量と同量の涵養を求める「原則10割」の仕組みや、阿蘇草原を寄付によって支える基金が動き始めている。
国際目標を決めるのは、国家や国際会議だ。
しかし、自然を実際に回復させるのは、農家、住民、企業、自治体が暮らす地域である。
世界目標を、田畑、水田、森林、草原へ下ろす。
ネイチャーポジティブの成否は、地域で行動を続けられる仕組みをつくれるかに懸かっている。
★背景
2022年に採択された「昆明・モントリオール生物多様性枠組」は、2030年までに自然の損失を止め、回復へ転じる世界共通の目標を掲げた。
しかし、国際的な宣言が採択されただけで、森が再生し、地下水が増え、農地の土壌が豊かになるわけではない。
土地利用を決めるのは地方政府だ。
水を管理するのも、農業政策を運用するのも、地域のインフラを整備するのも、多くの場合は自治体や州政府である。
そして、農地を耕し、森林や草原へ手を入れ、水源を守るのは、そこに暮らす人々だ。
グローバルな目標と、ローカルな行動。
その間を、制度、資金、科学、コミュニティでつなぐことが、ネイチャーポジティブを理念から実装へ移す条件となる。
世界目標は、田んぼを耕さない。
国際会議は、草原の野焼きをしない。
企業の情報開示だけでは、地下水は増えない。
自然を回復させる作業が行われるのは、いつも地域だ。
土に種をまく人がいる。
水田へ水を張る人がいる。
草原へ火を入れ、次の草を育てる人がいる。
企業が資金を出し、自治体が制度を整え、住民が日々の暮らしの中で手入れを続ける。
2026年7月14日、熊本城ホールで開かれた座談会「ランドスケープやコミュニティを核としたネイチャーポジティブ・アクション」。
そこで紹介されたのは、自然保護の小さな実証実験ではなかった。
インドでは、自然農法が約180万から200万人規模の農家へ広がっている。
熊本では、半導体産業の成長と地下水保全を両立させる新しいルールが動く。
阿蘇では、草原を維持する作業を、九州全体の水源を守るグリーンインフラとして捉え直している。
国際目標は、地域で実行されて初めて意味を持つ。
自然を守る主体は、誰なのか。
その費用を誰が負担し、成果を誰が受け取るのか。
インド、熊本、アルメニアの実践から見えてきたのは、地域をネイチャーポジティブの「実行単位」として捉える考え方だった。

国際合意だけでは、自然は回復しない
気候変動対策には、パリ協定に基づく各国目標、年次報告、世界全体の進捗を確認するグローバル・ストックテイクなどの仕組みがある。
国際的な枠組みが方向を示し、国家が目標を定め、その進捗を検証する。
生物多様性についても、昆明・モントリオール生物多様性枠組によって、2030年へ向けた目標が共有された。
だが、実際に土地や水、農業、都市を管理するのは、国だけではない。
面積も人口も大きい国では、州、県、市町村などの地方政府が、自然に関わる多くの意思決定を担っている。
どこを開発するのか。
水をどれだけ利用するのか。
農業をどのように支援するのか。
森林、草原、河川をどう管理するのか。
国際的な目標を、地域の条例、予算、産業政策、住民活動へ翻訳できるか。
ネイチャーポジティブは、外交会議だけで実現するものではない。

8,168の地域へ広がった、女性主導の自然農法
インド南東部のアーンドラ・プラデーシュ州は、人口約5,500万人、約1,000キロメートルの海岸線を持つ大きな州だ。
同州が2015年度から本格化させたのが、アーンドラ・プラデーシュ・コミュニティ管理型自然農法、APCNFである。
化学肥料や農薬へ依存せず、地域で入手できる材料や微生物を活用して、種子、土壌、植物の状態を整える。
莫大な費用をかけて外部の資材を購入するのではなく、農地の生態系が持つ力を引き出す農業だ。
座談会では、すでに200万人を超える農家へ広がったと紹介された。
APCNFの公式情報では、2026年時点で8,168のグラム・パンチャーヤトと呼ばれる地域に普及し、参加農家は177万人以上、実践面積は92万ヘクタールを超える。農家所得は38%から66%向上し、水の使用量は最大50%削減されたという。
これは、環境意識の高い一部の農家だけによる取り組みではない。
地域の農業システムそのものを転換する規模に達している。
自然農法を支えた「女性の社会インフラ」
ナイドゥ州首相は、自然農法を始めた当初、多くの反対があったと振り返った。
新しい農法で、本当に収穫できるのか。
化学肥料を使わず、農家の所得を維持できるのか。
小規模な実証には成功しても、州全体へ広げられるのか。
その壁を越える力になったのが、女性を中心とする自助グループだった。
モデレーターのトリパティ氏は、州全体で約850万人の女性が10人程度の自助グループへ組織され、地域に情報と経験を伝える巨大なネットワークを形成してきたと説明した。
行政が上から農法を指示するだけではない。
実践した女性農家が、近隣の農家へ方法を伝える。
成功例と失敗例を共有する。
貯蓄や融資の仕組みを使い、農家が新しい方法へ移行する不安を支える。
自然農法を広げたのは、技術だけではなかった。
地域にすでに存在していた、人と人との信頼関係だった。

環境に良いだけでは、農業は広がらない
農家にとって重要なのは、理念だけではない。
収穫が安定するか。
資材費を減らせるか。
所得が増えるか。
干ばつや豪雨に耐えられるか。
家族の健康を守れるか。
APCNFでは、化学肥料や農薬など外部から購入する資材を減らすことで、生産費を抑える。
土壌中の有機物や微生物の働きを高め、保水力を回復させることで、少ない水でも作物を育てやすくする。
複数の作物を組み合わせることで、特定の作物が不作になった際のリスクも分散する。
自然農法は、環境のために農家へ負担を求める制度ではない。
農家の所得、健康、気候変動への強さを同時に高めることで、参加者を増やしてきた。
同プログラムは、2026年6月、世界最大級の環境賞とされる「Food Planet Prize」を受賞した。賞金は150万ドル。農家主導で進む大規模な農業生態系への転換が評価された。
自然を回復させる活動は、参加する人の生活も良くしなければ続かない。
ネイチャーポジティブは、ヒューマンポジティブでなければならないのだ。
福岡正信の思想が、インドの大地へつながる
トリパティ氏は、アーンドラ・プラデーシュ州の自然農法と、日本の農業哲学者・福岡正信の思想とのつながりにも触れた。
福岡は、自然を人間の意図どおりに支配するのではなく、自然の仕組みに沿って農業を行う「自然農法」を提唱した。
耕し過ぎない。
農薬や化学肥料へ過度に依存しない。
土壌、植物、昆虫、微生物を、切り離された要素ではなく、一つの生態系として見る。
その考え方は、遠く離れたインドで、女性農家のネットワークと州政府の政策を通じ、巨大な社会実装へ発展した。
思想は、そのまま輸出できるものではない。
気候も、土壌も、農作物も、地域社会の仕組みも異なる。
だが、「自然に対抗する農業から、自然とともに働く農業へ」という原則は、地域ごとの知恵と組み合わさることで、新しい形を生み出す。
熊本の地下水は、火山と人間の共同作品
続いて木村敬知事が語ったのは、熊本の地下水だった。
熊本地域では、約100万人の暮らしと産業を支える水道水源のほぼ100%を地下水で賄っている。
その豊かな地下水は、自然だけがつくったものではない。
数万年前の阿蘇火山の噴火によって、水が浸透しやすい地層が形成された。
さらに1600年頃から、白川中流域を中心に水田が開かれた。
水田へ張られた水が地下へ浸透し、地下水を育ててきた。
火山がつくった地質。
雨を受け止める森林や草原。
水を地下へ送り込む水田。
農業を続けてきた人々。
熊本の地下水は、自然現象と人間の営みが、数百年をかけて共同でつくった自然資本なのである。

「使った量の1割」から「原則10割」へ
地下水は、熊本の生活を支えるだけではない。
農業、食品、飲料、観光、工業を支え、近年は半導体関連産業の集積を支える重要な生産資源となっている。
一方で、半導体工場は製造工程で多くの水を必要とする。
企業進出による雇用や投資への期待と、地下水が減るのではないかという住民の不安。
両者をどう両立させるのかが問われている。
熊本県では2012年度から、地下水を大量に採取する事業者に、採取量の1割に相当する涵養への取り組みを求めてきた。
しかし、半導体関連企業の集積による取水量の増加を見据え、2023年9月に地下水涵養指針を改正。新たに許可を得る採取者には、採取量と同量に当たる「原則10割」を目標とする涵養計画を求める仕組みへ強化した。
水を使うのであれば、同じ量を地域へ戻す努力をする。
地下水を、自由に採取できる私有資源ではなく、地域で守る「公共水」として扱う考え方である。
企業が、使った水を田んぼで育てる
地下水涵養の方法の一つが、水田湛水だ。
米や作物を育てていない期間に水田へ水を張り、ゆっくり地下へ浸透させる。
熊本の白川中流域は、特に水が地下へ浸透しやすい。
2023年度には、延べ約527ヘクタールで湛水が行われ、推定約1,579万立方メートルの地下水が涵養された。
企業が農家へ費用を支払い、水田湛水を支える。
地域の米を購入し、社員食堂で利用する。
休耕地や転作田を、地下水をつくるインフラとして生かす。
JASMは、主食用米の作付面積を拡大する農家を支援し、地下水涵養量を増やす取り組みに参加している。親会社のTSMCも、熊本工場で使用する地下水の100%を超える量を地域へ還元する方針を示している。
企業が水を使う。
農家が水を育てる。
企業の資金が農業を支え、農地が地域の水循環を支える。
産業と自然を対立させず、相互に維持する仕組みが始まっている。

阿蘇草原は、九州の「水を育てる設備」
木村知事がもう一つ紹介したのが、阿蘇草原の保全だった。
阿蘇の広大な草原には、春先に野焼きを行い、放牧や採草を続けることで維持されてきた場所が多い。
人が手を入れなければ、草原は次第に藪や森林へ変化する。
それは自然へ戻るようにも見える。
しかし、長く草原に適応してきた植物や昆虫の生息地は失われる。
さらに阿蘇は、白川、筑後川をはじめとする九州の六つの一級河川の源流域だ。
草原へ降った雨は地中へ浸透し、熊本だけでなく、九州各地の生活、農業、産業を支える水になる。
阿蘇草原は、美しい景観や観光資源であるだけではない。
水を蓄え、生物多様性を育て、災害を和らげるグリーンインフラなのである。

草原の手入れを、寄付で「見える価値」にする
阿蘇草原を維持してきた農家や地域住民は減少し、野焼きや輪地切りを担う人手も不足している。
草原の恵みは九州各地へ広がる。
だが、その管理負担は阿蘇の住民に集中してきた。
この構造を変えるため、熊本県と阿蘇グリーンストックは2025年、「九州の水を育む阿蘇の守り手基金」を設置した。
企業や個人から寄付を募り、野焼き、輪地切り、草原管理などの活動を支える。
基金では、寄付金によって維持できる草原面積と、水源涵養への貢献量を数値化する。
熊本県の試算では、1万円の寄付によって、1年間に約1,564平方メートルの草原を維持し、約2,564立方メートルの水源涵養を支えられる。
寄付した金額だけを示すのではない。
どれだけの草原を守り、どれだけの水を育てたかを可視化する。
自然保全への支出を、効果の分からない善意から、測定できる自然資本への投資へ変える試みだ。
自然を守ることが、企業価値を高める
木村知事は、ネイチャーポジティブへの貢献が、企業価値を高めると強調した。
熊本の水を使って事業を行う企業が、森林、水田、草原の保全へ参加する。
地域の住民は、企業を自然資本の利用者としてだけでなく、地域の財産をともに守るパートナーとして見るようになる。
企業にとっては、安定した水源を確保できる。
地域との信頼関係を築ける。
採用、ブランド、事業継続、社会的評価にもつながる。
自然保全は、事業活動の外側で行う社会貢献ではない。
企業が地域で長く事業を続けるための、経営基盤への投資なのである。
COP17は、地方政府の実践を世界へつなぐ
2026年10月19日から30日まで、アルメニアの首都エレバンで、生物多様性条約第17回締約国会議、COP17が開かれる。
ムヘル・マルガリャン大使は、国の政府だけでは生物多様性目標を達成できないと語った。
水管理。
都市計画。
土地利用。
廃棄物処理。
地域産業。
これらの多くは、地方政府の権限と住民の日常生活に深く関わっている。
COP17の会期中となる10月24日には、エレバンで「第9回地方政府・都市サミット」が開催される。
世界各地の知事、市長、地域政府が集まり、地域での実践を共有し、それぞれの行動が昆明・モントリオール生物多様性枠組の実現へどう貢献するかを示す予定だ。
国際合意が地域へ目標を下ろす。
地域で生まれた成功例が、国家政策と国際ルールを押し上げる。
トップダウンとボトムアップを循環させることが、COP17の重要な課題となる。

ランドスケープは、ただの風景ではない
ランドスケープという言葉は、日本語では「景観」と訳されることが多い。
だが、ネイチャーポジティブにおけるランドスケープは、眺めの良い風景だけを意味しない。
農地、森林、草原、河川、地下水、集落、都市、産業、人の暮らしがつながる空間全体である。
水は自治体の境界で止まらない。
生き物は企業の敷地だけで生息しているのではない。
農業の影響は、農地の外にある河川や海へも広がる。
個別の施設や企業だけを改善しても、地域全体の自然が回復するとは限らない。
流域や草原、農村地域など、一つのつながった自然の単位で課題を捉える必要がある。
コミュニティは、協力を求める相手ではない
自然保全の計画では、地域住民が「ステークホルダー」の一つとして書かれることが多い。
しかし、アーンドラ・プラデーシュ州の自然農法を広げたのは、女性農家のコミュニティだった。
熊本の地下水を数百年にわたって育てたのは、水田を耕してきた人々だった。
阿蘇草原を守ってきたのも、野焼きや放牧を続けてきた地域住民である。
コミュニティは、行政や企業が立てた計画へ協力してもらうだけの存在ではない。
自然資本を維持してきた知識と経験を持ち、地域の行動を動かす主体だ。
行政は、住民に行動を求めるだけでは足りない。
地域の担い手が生活を維持できる資金、制度、技術、社会的評価を整える必要がある。
世界目標を、日々の営みへ変える
インドの自然農法。
熊本の地下水涵養。
阿蘇草原の野焼き。
一見すると、異なる地域の異なる活動に見える。
だが、共通するものがある。
人々の暮らしの中に、自然を回復させる行動が組み込まれていることだ。
農家が所得を得ながら、土壌を再生する。
企業が事業を続けながら、使用した水を地域へ戻す。
草原を維持する作業に、流域の企業や住民が費用を負担する。
自然保全を、一部の専門家やボランティアだけの仕事にしない。
経済活動、雇用、農業、地域文化の中へ組み込む。
グローバルな目標は、必要だ。
企業の情報開示も、国際的な指標も必要になる。
しかし、最後に自然を回復させるのは、地域で繰り返される小さな行動の積み重ねである。
田んぼに水を張る。
土に微生物を戻す。
草原へ火を入れる。
森を手入れする。
世界目標は、村と草原で実現する。
ネイチャーポジティブとは、壮大な理念を掲げることではない。
自然を支える日々の営みが続くように、社会と経済の仕組みをつくり直すことなのだ。
参考情報
GLOBAL NATURE POSITIVE SUMMIT 2026
https://www.naturepositive.org/events/summit/
Andhra Pradesh Community Managed Natural Farming
https://apcnf.in/
Food Planet Prize 2026
https://foodplanetprize.org/
熊本県「地下水量保全の取組」
https://www.pref.kumamoto.jp/site/mizunokuni-kumamoto/224095.html
熊本県「九州の水を育む阿蘇の守り手基金」
https://www.pref.kumamoto.jp/soshiki/49/241676.html
生物多様性条約COP17
https://www.cbd.int/cop
第9回地方政府・都市サミット
https://cbc.iclei.org/iclei/summit/9th-summit/
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