
★要点
冬の積雪や路面凍結から交通インフラを守るために欠かせない「融雪剤」が、道路脇の土壌や植物だけでなく、昆虫の体内ナトリウム濃度や食性(栄養段階)そのものを変化させている実態が明らかになった。
弘前大学、京都大学、東京大学などの共同研究グループは、青森県内の国道7号沿い10地点を調査した研究成果を発表(2026年9月1日付の国際学術誌『Applied Soil Ecology』に掲載、9月3日に公表)。
春季、道路に近い場所ほど土壌、植物(イタドリやシロツメクサ)、そしてクロヤマアリの体内ナトリウム(Na)濃度が高く、さらに道路に近いアリほど栄養段階が低く「より植物性の餌」を利用していることが判明した。
人間の社会インフラを安全に維持するための行為が、アスファルトの境界を越えて周辺生態系の食物網に影響を及ぼしている。インフラを守るための処置が、道路の外側の生態系にどのような影響を残すのか。その見えにくい副作用をどう捉え、共存の仕組みを設計するかが問われている。
★背景
寒冷豪雪地帯において、塩化ナトリウムを主成分とする融雪剤・凍結防止剤の散布は、スリップ事故防止や物流網の維持に不可欠な冬の日常管理である。
しかし、散布された大量の塩分は、雪解け水とともに道路側溝や法面、周辺の緑地へと流れ出す。土壌の塩類集積や街路樹の立ち枯れ、水環境への影響はこれまでも部分的に懸念されてきたが、陸上生態系の食物連鎖の上位や昆虫の生理・行動にまで及ぶ影響の経路は十分に解明されていなかった。
草食昆虫や雑食昆虫にとって、ナトリウムは成長や神経機能の維持に必要な必須微量元素でありながら、植物組織中の含有量が低いため「貴重な制限栄養素」とされてきた。
道路維持のために散布された塩分が、野生生物の餌選好や栄養バランスを意図せず変化させている。
冬の吹雪のなか、大型トラックがオレンジ色の散布車とすれ違う。
路面に撒かれた白い塩の粒が、凍りついた雪をみるみるうちにシャーベット状へと溶かしていく。
それは、凍結から人命を守り、途切れない物流を支えるための頼もしい技術であり、雪国が機能し続けるために不可欠なインフラのメンテナンスだ。
だが、その塩は雪が解けたあと、どこへ消えるのか。
2026年9月、青森県の国道沿いを調べた研究チームが示したのは、道路のすぐ脇の草むらで、アリたちの食性が変化していたという事実だった。
人間が道路の安全を守るために撒いた物質が、アスファルトの境界を越え、土を染め、草に吸われ、足元の昆虫の体内Na濃度や食性にまで影響している。
インフラを安全に維持することと、その周囲の生態系を維持すること。
この2つのメンテナンスが交差する境界線で起きている現象を検証する。
国道7号沿いの調査――春の草むらに蓄積するナトリウム
弘前大学、京都大学、東京大学などの共同研究チームは、青森県を通る主要動脈である国道7号沿いの10地点において、融雪剤の環境影響に関する詳細なフィールド調査を実施した。
分析の対象となったのは、融雪剤が最も散布される冬期を経た「春」の環境である。
道路からの距離に応じて、土壌、代表的な道端植物(イタドリ、シロツメクサ)、そして地表を歩き回る代表的な雑食性昆虫である「クロヤマアリ」を採取し、それぞれのナトリウム(Na)濃度を測定した。
結果は一貫していた。
道路から近ければ近いほど、土壌のNa濃度が顕著に高く、そこで育つイタドリやシロツメクサの葉に含まれるNa濃度も高くなっていた。
そして、その植物の周囲に生息するクロヤマアリの体内Na濃度もまた、道路に近い個体ほど高水準に達していた。冬のあいだに撒かれた塩分が、雪解けとともに路肩の生態系へと浸透し、植物や昆虫の体内Na濃度にまで影響している動態が数値として浮き彫りになった。


アリが「より植物性」になるメカニズム――飼育実験と食性の変化
研究グループがさらに注目したのは、アリの体内における「窒素安定同位体比」の分析から判明した食性の変化である。
クロヤマアリは本来、死んだ昆虫などを食べる「動物質中心」と、植物の花蜜やアブラムシの甘露を吸う「植物質中心」を使い分ける雑食性の昆虫だ。
同位体分析の結果、道路に近い場所にすむクロヤマアリほど栄養段階(トロフィックレベル)が低く、より植物性の餌を多く利用していることが明らかになった。
通常、植物は動物に比べてNa濃度が低いため、雑食性の昆虫にとって動物質の餌はNaを補う重要な供給源になり得る。しかし研究グループの飼育実験では、Na濃度の高い餌で2か月間飼育したアリが、その後Na濃度の低い餌をより好むようになることが示された。
この結果を踏まえると、融雪剤によってNa濃度が高くなった道路沿いの環境では、クロヤマアリがNa濃度の低い植物性の餌をより多く利用する方向へ食性を変えている可能性がある。道路管理のための塩が、昆虫の餌選好と栄養段階にまで影響していたのだ。
制限栄養素の過剰供給が生む、生物間相互作用への影響
自然界において、栄養素の欠乏や偏りは、生物の行動や種間関係を左右する重要な条件である。
アリがより植物性の餌を利用するようになれば、捕食圧や植物—昆虫間の関係が変化する可能性がある。さらに、塩分に引き寄せられる生物が道路沿いに集まることで、道路周辺の生物相や行動パターンが変化したり、生物間相互作用を変えてしまうおそれもある。
人間が道路の凍結を防ぐという目的で投入した化学物質が、土壌化学から植物、昆虫の体内Na濃度、そして食物網の関係へと連鎖する。人工物と自然の接点において、意図せざる栄養カスケードの組み替えが静かに進行している。
インフラ維持管理が抱える「メンテナンスの外部性」
この研究が投げかけている本質的な問いは、インフラの維持管理が必然的に帯びてしまう「外部性」の問題である。
経済学における外部性とは、ある主体の行動が無関係な第三者や環境に影響を及ぼすことを指すが、インフラの管理においても同様の構造が存在する。
道路管理者にとって、冬期の融雪剤散布は「交通の安全と人命の保護」「物流機能の途絶防止」という極めて正当で必須の業務だ。しかし、道路という線状のインフラを安全に保つためのメンテナンスは、道路の境界線を越えた周辺の土壌や生きものたちに環境負荷や生態系変化という形で波及している。
建物の清掃排水、構造物の防錆塗料、草刈りや除草剤の使用。
あらゆる都市インフラや交通インフラの維持管理は、構造物を長持ちさせ安全を保つプロセスであると同時に、環境中へ何らかの物質や改変を放出し続けるプロセスでもある。
私たちはこれまで、インフラの内側の効率や安全性ばかりに目を向け、境界線の外側に染み出していく影響を「不可視のコスト」として見過ごしてきた。
境界を調律する――これからの環境インフラ設計
融雪剤の使用を明日から全面停止することはできない。豪雪地域の市民生活と経済活動を守るためには、冬の路面管理は不可欠だからだ。
だからこそ求められるのは、排除か継続かという極論ではなく、インフラ管理と周辺生態系の接点を丁寧に調律(チューニング)する「制度と技術のメンテナンス」である。
気象予測や路面センサー技術を活用した融雪剤散布量の最適化、塩化ナトリウムに代わる環境低負荷型の代替材や防滑材の導入、道路側溝から周辺緑地への直接流入を抑制する排水浸透インフラの再設計など、取り得る選択肢は存在する。
道路を安全に保つことと、その道路が貫いている自然の食物網を損なわないこと。
二者択一に陥るのではなく、メンテナンスの外部性を設計の初期条件として組み込むこと。
アスファルトの縁石の向こう側で餌を探すアリの姿は、人と自然が共生するインフラのあり方に、静かな視線の転換を迫っている。
【参考】
弘前大学:融雪剤の散布によってアリがより植食になる(プレスリリース/2026年9月3日発表)
https://www.hirosaki-u.ac.jp/topics/116824/
東京大学大学院農学生命科学研究科:研究成果(2026年9月1日)
https://www.a.u-tokyo.ac.jp/topics/topics_20260901-3.html
京都大学:研究成果発表(2026年9月3日)
https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2026-09-03-0
原著論文:Kikuchi et al. Applied Soil Ecology. 2026 Sep 1 (Online ahead of print)
https://doi.org/10.1016/j.apsoil.2026.107417
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