人里に出没するクマやシカといった野生鳥獣の対応をめぐり、地域住民の不安が深刻化している。特に近年は、クマの出没件数が過去最多を記録し、人的被害も増加傾向にある。こうした事態を受けて政府は、2025年に「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律(鳥獣保護管理法)」の改正案を国会に提出した。参議院常任委員会調査室・特別調査室の報告書によれば、今回の改正案は、人と野生動物が隣接して暮らす「共生の時代」における、制度と現場のギャップを埋める一歩といえる。背景にあるのは、生物多様性保全と住民安全という両立の難しい命題だ。

クマの人里出没が常態化。「個体数回復」と「環境変化」が重なった複合要因とは?

2023年、日本各地でクマによる人的被害が過去最多を記録した。2024年も引き続き、山間部や農村部にとどまらず、都市周辺の住宅地や学校、商業施設周辺にまで出没するケースが相次いで報告されている。もはや「珍しいこと」ではなくなった大型野生動物の出没。だがこの背景には、単なる“クマの増加”という短絡的な理解では捉えきれない、複雑な生態系と人間社会の変化がある。
ひとつは、生息地である里山の荒廃や、山間地域の過疎化が進んだことによって、クマの行動範囲と人の生活圏の境界が曖昧になったこと。もうひとつは、保護政策の成果により、ツキノワグマやヒグマの個体数そのものが回復傾向にある点だ。かつて絶滅の危機に瀕していたこれらの種は、国や自治体による保護とモニタリングの結果、一定の回復を見せたが、それがかえって人間社会との軋轢を生む形となっている。
さらに、近年では気候変動の影響も大きい。ブナやドングリといったクマの主食となる木の実が不作になる「凶作年」には、餌を求めて里へ下りる個体が増える傾向が強まっており、2023年はまさにそのような年だった。そして2025年もクマが住宅地まで出現する事例や被害は増え、環境変化、生息域の変容、保護政策という三重の要因が、野生動物と人間の距離を急激に縮めていることが確認されている。

これまでの制度の限界、捕獲の煩雑さと地域自治体の“板挟み”状態。

現行の鳥獣保護管理法は、野生鳥獣の保護を前提に制度が構築されており、個体の捕獲や殺処分には厳格な条件が課されている。これは生物多様性の保全や生態系バランスを重視した理念に基づくものだ。しかし現場では、その理念と現実の乖離が大きな問題になっている。
たとえば、住宅地にクマが出没しても、都道府県による「緊急捕獲」の手続きには事前の調査や許可申請が必要で、対応が遅れることがあった。また、実際の住民避難や初動対応は市町村に委ねられているにもかかわらず、捕獲などの権限は都道府県にあるという“ねじれ構造”が、対応の遅延や責任の所在不明確化を招いていた。
さらに、自治体によっては専門の鳥獣対策職員やハンターの確保が難しく、対処が追いつかない地域も少なくない。クマの出没が年間十数件を超える自治体にとっては、対応が慢性的な業務負担となっており、制度疲労の様相すら見せているのだ。

2025年法改正案。緊急捕獲の迅速化と地域対応力の強化へ。

こうした課題を受け、2025年に提出された鳥獣保護管理法の改正案では、以下のような制度改革が盛り込まれている。第一に「緊急捕獲制度」の簡素化だ。都道府県が許可を出すまでのプロセスが見直され、現場での迅速な意思決定が可能になるよう制度が設計されている。第二に「指定鳥獣管理区域制度」の創設がある。これは、市町村が自らの地域特性に応じて、特定の区域で重点的に管理施策を行える新制度で、地元の実情に即した柔軟な対応が期待されている。
また、生物多様性の視点を踏まえ、必要以上の駆除を避けつつ、科学的知見に基づくモニタリングや追跡調査を推進する方針も明記された。今後は、野生動物の生息状況や行動パターンに基づく“予防的管理”が重視されるだろう。
しかしこのように法制度の整備は進むが、真の課題は「人と動物が安全に共存できる社会」をどう構築するかにある。野生動物をすべて排除するのではなく、一定の距離と理解をもって共に生きる“関係性の再設計”が求められている。
そのためには、たとえば住民参加型の通報・見回りネットワークや、学校教育を通じた「野生動物との付き合い方」の普及啓発、IT技術を活用した出没情報のリアルタイム共有など、多層的な対策が不可欠だ。特に、野生動物の生息域を人間社会が尊重しながら保全していく視点、すなわち「生物多様性の保護と持続可能な地域づくりの両立」は、これからの日本の環境政策における鍵になる。
人と野生動物の距離がかつてなく近づく現代。鳥獣保護管理法の改正は、単なる法技術的な整備ではなく、人間社会が自然とどう向き合うべきかという本質的な問いへの第一歩だ。2050年の共生型社会を見据えて、いま一度、「人と自然の境界線」を再定義する時期に来ているようだ。

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