
★要点
2026年7月14日、「GLOBAL NATURE POSITIVE SUMMIT 2026」で、ネイチャーポジティブの社会的・経済的意義を考えるパネルディスカッションが開かれた。
登壇したのは、熊本市の大西一史市長、肥後銀行の笠原慶久氏、MS&ADインシュアランスグループホールディングスの舩曵真一郎氏、サントリーホールディングスの浅木純氏、国際自然保護連合のグレーテル・アギラー氏。モデレーターは、キャピタルズ・コアリションのマーク・ゴフ氏が務めた。
議論から見えてきたのは、自然を守る活動と、経済を支える活動は別のものではないという事実だった。
熊本の地下水は、市民の飲み水であると同時に、農業、観光、食品、飲料、半導体産業を支える自然資本である。その水を守ることは、市民生活、企業活動、雇用、地域経済を守ることに直結する。
自治体が制度を整え、企業が長期投資を行い、銀行が資金を循環させ、保険会社が災害リスクを可視化する。
熊本では、「自然を守る経済」の具体的な形が動き始めている。
★背景
世界の経済は、自然の上に成り立っている。
水、森林、土壌、生物多様性、安定した気候。これらが失われれば、原材料価格は上昇し、工場の操業は不安定になり、農林水産業は打撃を受け、災害による損失も拡大する。
しかし、自然が生み出す価値の多くは、企業や自治体の財務諸表には記載されてこなかった。
地下水が十分にある間、その価値は見えにくい。洪水を抑える森や湿地も、災害が起きなければ経済効果として認識されにくい。
自然の価値が見えるのは、失われた後。
その構造を変え、自然が健全なうちから測り、守り、投資することがネイチャーポジティブ経済の課題である。
蛇口をひねれば、水が出る。
熊本に暮らす人々にとって、それは日常の風景だ。
だが、その水は水道施設の中でつくられているのではない。
阿蘇の草原や森林、農地へ降った雨が長い時間をかけて地中へ浸透し、地下を移動し、熊本の暮らしを支えている。
熊本市は、市民の水道水をすべて地下水で賄う、世界でも珍しい都市である。
地下水は市民の共有財産であると同時に、企業活動を支える生産資源でもある。
飲料をつくる企業。食品を加工する企業。農産物を育てる生産者。水を大量に必要とする半導体産業。
皆が、同じ水に依存している。
では、その水は誰のものなのか。
誰が守り、誰が費用を負担し、誰が将来へ引き継ぐのか。
2026年7月14日、「GLOBAL NATURE POSITIVE SUMMIT 2026」で開かれたパネルディスカッション「ネイチャーポジティブの社会・経済的意義」。
そこで語られたのは、自然を守るべきだという理念だけではなかった。
自然を測る。
企業価値へつなげる。
災害リスクを減らす。
資金を呼び込む。
そして、自然を守ることで地域経済を強くする。
熊本の地下水をめぐる挑戦は、自然資本を社会と経済へ組み込む実験でもある。

自然の価値を、経済の共通言語にする
パネルディスカッションの冒頭、キャピタルズ・コアリションのマーク・ゴフ氏は、自然資本の測定と評価を標準化する動きについて説明した。
企業がどれだけの水を使い、自然へどのような影響を与えているのか。
その影響を、一貫性があり、比較でき、監査可能な形で評価し、企業の貸借対照表や統合損益へ反映する。
キャピタルズ・コアリションは、世界銀行、各国政府、会計専門家などが用いてきた異なる手法をつなぎ、企業が自然資本を経営判断へ組み込むための標準化を進めている。同団体は、自然への影響だけでなく、企業が自然へどの程度依存しているかを把握する「資本アプローチ」を提唱している。
ゴフ氏は講演で、自然資本を適切に測り、経済へ組み込むことによって、少なくとも150兆ドル規模の機会を捉えられる可能性があると説明した。
数字の妥当性や算定範囲については今後の検証が必要だろう。
それでも、自然を守ることが経済成長の反対側にあるのではなく、新しい市場、投資、技術、雇用を生み出す可能性を持つことは重要な視点だ。
自然か、経済か。
その二者択一を終わらせる。
自然と経済は、そもそも同じ仕組みの中に存在している。

社会のためと、企業のためは分けられない
国際自然保護連合のグレーテル・アギラー氏は、「社会的意義」と「ビジネス上の意義」を分けて考えるべきではないと語った。
自然保全は、すべての人々の福祉と繁栄を支える基盤である。
自然が損なわれれば、企業活動も続かない。
森林火災、洪水、生物多様性の減少、気候変動の影響は、まず所得の低い地域、先住民族、地域コミュニティなど、社会的に弱い立場にある人々へ集中しやすい。
企業だけが繁栄し、地域社会が衰退する形は長続きしない。
地域社会だけに保全の負担を負わせ、企業が自然資源を使い続ける形も持続しない。
社会と企業が同時に豊かになる仕組みをつくらなければならない。
IUCNは、世界の生物種の保全状況を評価する「IUCNレッドリスト」を運営している。講演では、17万種を超える生物を評価し、約4万8,000種が絶滅の危機にあると紹介された。IUCNの公式サイトでも、17万2,600種を超える生物が評価済みとされている。
科学的なデータを意思決定の場へ届ける。
企業や自治体が行う活動を評価する。
自然を活用して社会課題を解決する「自然を基盤とした解決策」の基準をつくる。
そして、政府、企業、市民社会、研究機関、地域コミュニティを結ぶ。
一つの組織や一つの業界だけで、自然損失を止めることはできない。
必要なのは、全員が同じテーブルに着くことだ。

熊本の地下水は、暮らしであり、産業である
大西一史市長は、熊本市を「世界一の地下水都市と言っても過言ではない」と表現した。
熊本市では、約73万人の市民が利用する水道水のすべてを地下水で賄っている。
地下水が湧き出して形成された江津湖は、市民の憩いの場であると同時に、多様な生き物が生息する重要な自然環境でもある。
熊本の地下水は、行政だけが守ってきたものではない。
市民、農業者、企業、自治体が地域を越えて協力し、水田湛水、森林保全、節水、地下水涵養などの活動を長年続けてきた。
自治体には、自然保護活動を行うだけでなく、条例を整え、関係者を結び、地域全体で守る仕組みを設計する役割がある。
大西市長が強調したのは、自然を守ることが市民の幸福や経済の安定につながるという理解を共有する重要性だった。
地下水は、市民の飲み水である。
同時に、農業、観光、食品、飲料、半導体などの産業を支える経済資源でもある。
熊本では半導体関連企業の集積が進み、新しい雇用や投資への期待が高まっている。
その一方、地下水の取水量や水質への不安も市民の間で強まっている。
大西市長は、社会や産業の状況が変化する中、熊本市の地下水保全条例の見直しを始めたことを明らかにした。
規制は、企業活動を止めるためだけにあるのではない。
市民と企業が同じ資源を使いながら、地域で長く共存するためのルールである。

「森が工場」。サントリーが水源へ投資する理由
サントリーホールディングスの浅木純氏は、メーカーの立場から、水源保全と事業価値の関係を説明した。
サントリーの事業は、水をはじめとする自然の恵みを商品として届けることで成り立っている。
水は単なる原材料ではない。
事業価値を生み出す基盤であり、企業の存続を支えるインフラだ。
サントリーは2003年、熊本県に九州熊本工場を開設した。同じ年、阿蘇で水源涵養と生物多様性の保全・再生に取り組む「天然水の森」の活動を開始した。
活動は現在、16都府県27カ所、1万2,000ヘクタールを超える規模に広がり、国内工場で汲み上げる地下水量の2倍以上を涵養している。サントリーは、この活動をボランティアではなく、基幹事業と位置づけている。
森を整備しても、すぐに売上が増えるわけではない。
土壌が育ち、水を蓄える力が高まり、生物多様性が回復するまでには、長い時間がかかる。
サントリーは森林所有者や自治体と、最低30年、長い場合には100年に及ぶ協定を結び、森の状態を科学的に調べながら管理を続けている。
浅木氏は、その投資が企業にもたらす成果として、三つの点を挙げた。
一つ目は、自社が使う以上の水を育むウォーターポジティブの達成。
二つ目は、「サントリー天然水」というブランドへの共感。
三つ目は、自治体や地域住民との信頼関係である。
「森こそが天然水の工場だ」というメッセージは、広告表現だけではない。
製品をつくる工場と、水を育む森を一体として経営する考え方なのだ。

地域金融は、自然を守る「銀行」になれるか
肥後銀行の笠原慶久氏は、地域金融機関の役割を、融資や預金の提供だけに限定しなかった。
肥後銀行が掲げるパーパスは、顧客の資産だけでなく、地域の産業、自然、文化を育て、守り、次の世代へ引き継ぐことで、地域の未来をつくるというものだ。
地下水が失われれば、熊本の産業も暮らしも成り立たない。
だから地下水保全は、環境活動であると同時に、銀行の本業でもある。
肥後銀行は約40年前から水資源の保全に取り組み、森林の育成、水田湛水、阿蘇草原の維持などを続けてきた。
2011年には、阿蘇地域の耕作放棄地を水田へ戻す「阿蘇水掛の棚田」の活動を開始した。
水田に水を張ることで地下水を涵養し、耕作放棄地を再生し、希少な動植物の生息環境を守る。
同地は2026年3月、環境省の「自然共生サイト」に認定された。
肥後銀行は、この地下水保全活動について、社会的投資収益率も算定している。
同行の公表値では、森林の植樹や棚田での稲作などに投入した費用に対し、地下水の価値や農林産物の売上を含む便益は平均7.2倍になったという。
自然保全の価値を、感覚や善意だけでなく、数字として示す。
それによって企業や投資家が参加しやすくなり、活動を長く続けるための資金も集めやすくなる。
地域銀行には、自然資本を預かり、育て、次世代へ引き継ぐ「自然の銀行」としての役割が生まれ始めている。

雨を捨てずに、地下へ返す「2030の雨庭」
熊本では、森林や水田だけでなく、都市の中にも水を育む仕組みを広げようとしている。
その一つが「雨庭」だ。
雨庭は、建物の屋根や道路へ降った雨をすぐに下水や河川へ流すのではなく、植栽や土壌のある小さなくぼ地へ集め、ゆっくり地中へ浸透させるグリーンインフラである。
地下水の涵養を助ける。
豪雨時の排水負荷を下げる。
都市型水害を緩和する。
植物や昆虫の生息場所をつくる。
小さな庭でありながら、水循環、防災、生物多様性、景観を同時に支えることができる。
熊本では、県内に2030年までに2030個の雨庭を設置する目標を掲げ、「くまもと雨庭パートナーシップ」が普及活動を進めている。
その推進役の一つが、2026年4月に設立された一般社団法人熊本ウォーターポジティブ・デザインセンターだ。
同センターは、熊本県立大学を拠点に、雨庭の標準仕様、効果の測定方法、自然資本としての評価、普及の仕組みを整える役割を担う。
背景には、熊本県立大学、熊本大学、肥後銀行、サントリー、日本政策投資銀行、MS&ADの6組織が2025年に始めた「熊本ウォーターポジティブ・アクション」がある。
水を使うことによる負の影響を、水源涵養やグリーンインフラによって流域へ同等以上に還元する。金融的な仕組みも活用しながら、多様な企業や市民が参加できる水循環保全を目指している。
大規模なダムや地下施設だけが水を守るインフラではない。
企業の敷地、学校、住宅、道路、駐車場に設けられた小さな雨庭も、地域全体へ広がれば一つの大きな水循環システムになる。

保険会社が警告する「都市の中であふれる水」
MS&ADインシュアランスグループホールディングスの舩曵真一郎氏は、保険会社の立場から自然損失と災害リスクの関係を語った。
日本では長く、台風の強風による建物被害が大きな自然災害リスクだった。
しかし近年は、水害による損失が急速に増えている。
特に変化しているのが、河川の氾濫だけではなく、短時間に降った大雨を都市の排水能力が処理できず、道路や住宅地へ水があふれる内水氾濫の増加だ。
気候変動によって雨の強度が増している。
同時に、市街化によって雨が地中へ浸透できる土地が減り、アスファルトやコンクリートの上を一気に流れる水が増えている。
自然災害が増えれば、保険金の支払額も増える。
保険料が上昇し、保険へ加入できない人が増えれば、災害後に生活や事業を再建できない人も増加する。
これは「プロテクションギャップ」と呼ばれる問題だ。
保険会社が損害発生後に保険金を支払うだけでは、社会を守れない。
災害が起きる前に、洪水リスクを分析し、自治体、企業、住民とともに損失を小さくする必要がある。
MS&ADグループは、企業の拠点ごとに現在と将来の浸水深や被害額を推計できる洪水リスク分析サービスや、世界規模の将来洪水ハザードマップを展開している。
雨庭、森林、湿地、水田などの自然を活用したインフラは、地下水や生物多様性を守るだけではない。
将来の保険損失を減らし、市民と企業の再建力を高める防災投資でもある。

規制だけでは動かない。善意だけでも続かない
会場では、企業や組織がネイチャーポジティブへ移行するための最大の推進力は何かを問うアンケートが行われた。
選択肢は、規制、事業機会、物理的リスク、投資家からの期待。
最も多く選ばれたのは規制だった。
自然を守るには、一定のルールが必要だ。
地下水の取水量や水質を管理する。
開発による影響を評価する。
自然への負荷を減らし、回復措置を求める。
適切な規制がなければ、短期的な利益を優先する企業と、長期的な保全へ投資する企業の間に不公平が生まれる。
しかし、規制だけでネイチャーポジティブを実現することも難しい。
企業が自ら参加したくなる事業機会。
自然を守るほど企業価値が高まる評価制度。
自然再生へ資金が流れる金融商品。
地域住民が成果を実感できる仕組み。
若い人材やスタートアップが、新しい技術やサービスを生み出せる環境。
規制とインセンティブ、科学と金融、行政と民間。
それらを組み合わせる必要がある。
浅木氏は、熊本で課題を共有し、可視化し、民間の柔軟な活動と自治体の制度を組み合わせることの重要性を語った。
笠原氏は、地域によって自然災害も自然資本も異なるため、それぞれの地域に合った解決策が必要だと指摘した。
一つの成功例を、そのまま別の地域へ移すことはできない。
だが、自然の状態を測り、地域の関係者が参加し、金融を動かし、効果を検証するという考え方は共有できる。

最大化ではなく、最適化する経済へ
パネルディスカッションの最後に、マーク・ゴフ氏は「最大化ではなく、最適化」という言葉を示した。
企業の利益を最大化する。
生産量を最大化する。
土地の利用効率を最大化する。
短期的な一つの数字だけを最大化すれば、その外側にある水、生態系、地域社会、災害リスクへ負担が移る。
必要なのは、企業、地域、自然のどれか一つを最大化することではない。
それぞれが長く存続できる関係を見つけることだ。
熊本の地下水は、誰か一人の資産ではない。
市民の飲み水であり、農業者の生産基盤であり、企業の原材料であり、都市の魅力であり、次の世代から預かっている自然資本である。
水を使う人が、水を育む。
自然を守る企業が、事業を続けられる。
災害リスクを減らす投資が、保険料や復旧費用を抑える。
銀行が自然資本へ資金を流し、その成果を地域へ還元する。
自治体が全体のルールと将来像をつくる。
自然保全と経済成長を別々に考えるのではない。
水を守ることを、地域の成長戦略そのものへ変える。
熊本で始まった「水を守る経済」は、自然をコストとして扱う時代から、自然を共同で育てる時代への転換を示している。
参考情報
GLOBAL NATURE POSITIVE SUMMIT 2026
https://www.naturepositive.org/events/summit/
サントリー「天然水の森」
https://www.suntory.co.jp/eco/forest/
肥後銀行「地下水保全活動」
https://www.higobank.co.jp/aboutus/csr/environment/conservation.html
熊本ウォーターポジティブ・デザインセンター
https://www.midori-lab.pu-kumamoto.ac.jp/kumamoto-wpdc
くまもと雨庭パートナーシップ
https://www.kumamoto-ameniwa-partnership.com/
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