
★要点
2026年7月15日、「グローバル・ネイチャーポジティブ・サミット2026」で、「ネイチャーポジティブをどう測るか」をテーマとするパネルディスカッションが開かれた。
ネイチャーポジティブ・イニシアティブは、企業や金融機関が自然の回復・衰退を確認するための共通指標として、「生態系の範囲」「生態系の状態」「種の絶滅リスク」「種の個体数」の4項目を提示。キリンホールディングス、積水ハウス、ブラジルの鉱業会社ヴァーレは、実際の事業地や原料調達地で測定を試みた。
だが、自然を測れば、自動的に自然が回復するわけではない。測定結果を、調達、設計、投資、土地管理、地域との協働へ変えられるか。ネイチャーポジティブの本当の勝負は、数字を出した後に始まる。
★背景
気候変動には、温室効果ガスを二酸化炭素換算量で示す共通単位がある。一方、自然は、一つの数字では表せない。
同じ面積の森林でも、天然林と単一樹種の人工林では、生きものの種類、水を蓄える力、土壌、炭素吸収量が異なる。同じ企業活動でも、地域によって影響を受ける生態系や絶滅危惧種は変わる。
自然に関する指標は数百種類に及び、企業が何を測ればよいのか分からないことが、行動を遅らせる理由にもなってきた。だからこそ今、科学的で、比較でき、実務に使える「最小限の共通言語」が求められている。ネイチャーポジティブ・イニシアティブは、600以上の既存指標を整理し、共通指標の開発を進めてきた。
森が回復したと言うためには、何を測ればよいのか。
木の本数か。森林の面積か。そこに暮らす鳥や昆虫の種類か。絶滅危惧種が増えたかどうか。それとも、水、土壌、炭素、生態系全体の働きだろうか。
自然は、二酸化炭素のように一つの単位へまとめることが難しい。
だからといって、「複雑で測れない」と言い続ければ、企業も金融機関も、どこへ資金を投じ、何を改善すべきか決められない。植樹した、保護区を設けた、環境へ配慮したという発表が、本当に自然の回復につながったのかも確認できない。
熊本で開かれたパネルディスカッション「ネイチャーポジティブをどう測るか」には、企業、地球観測、生物多様性データの専門家が集まった。
語られたのは、自然を一つの点数へ押し込める方法ではない。
違う場所、違う事業、違う生態系を、一定の共通言語で捉えながら、地域ごとの複雑さを失わない方法。そして、測定結果を経営判断と現場の行動へ変える方法だった。
自然を測ることは、自然を管理し尽くすことではない。
自分たちがどこに立ち、どちらへ進んでいるかを知るための、地図と羅針盤を持つことなのだ。
自然は一つの数字にできない。それでも共通言語は必要だ
パネルを進行したネイチャーポジティブ・イニシアティブのギャビン・エドワーズ氏は、同組織が約2年間にわたり取り組んできた根本的な問いを示した。
自然は回復しているのか。
それとも、衰退しているのか。
企業は、その変化をどう測ればよいのか。
指標の開発では、世界の企業約100社が参加を希望し、その中から30社未満が実証企業として選ばれた。科学的な信頼性だけでなく、企業の意思決定に実際に使えるかどうかを確かめるためだ。
サミットで示された最終案の中心は、次の4指標だった。
1.生態系の範囲
森林、湿地、草原などが、どれだけの面積に存在しているか。
2.生態系の状態
植生、土壌、水、つながりなど、生態系がどれほど健全に機能しているか。
3.種の絶滅リスク
その場所で、絶滅の危険が高まっている生きものがいるか。
4.種の個体数
重要な生物種の数が増えているか、減っているか。
一つの数字ですべてを説明するのではなく、面積、質、絶滅リスク、個体数を組み合わせて自然の状態を見る。
しかも、企業の敷地内だけでなく、その周辺の流域や森林、農地、都市など、より広い景観単位で捉える。敷地内で木を増やしても、周囲の生態系が分断され、劣化していれば、長期的な回復は難しいからだ。
指標は、企業を順位付けするための単純な点数ではない。
自然のどこが損なわれ、どこへ手を入れるべきかを判断するための、共通の診断項目である。


鉱山会社が自然を測る理由――「事業を続ける許可」は社会から与えられる
ブラジルの国際鉱業会社ヴァーレで自然分野を担当するグラジエラ・パレンテ氏は、鉱業を「自然を基盤とする事業」と表現した。
鉱山は、土地を改変する。水を使う。森林や生息環境へ影響を与える。一方で、安定した水循環、土地の回復力、気候の安定がなければ、鉱山事業そのものも継続できない。
自然への影響と、自然への依存。その両方を把握しなければならない。
同社は、ブラジルのアマゾンや大西洋岸森林など、生物多様性の豊かな地域で事業を行っている。約1,100万ヘクタールを保護しているとし、主要な鉄鉱石生産地域で、ネイチャーポジティブ・イニシアティブの指標を試行した。
パレンテ氏が強調したのは、「すでに持っている情報から始める」ことだった。
大企業は、環境影響評価、許認可、モニタリング、土地管理などを通じ、長年にわたって自然に関するデータを集めている。新しい指標ができるたびに、すべてをゼロから調査する必要はない。
既存データを整理し、共通形式へ変換し、足りない部分を補う。
そのうえで、投資家、顧客、地域社会へ説明できる情報に変える。
鉱山会社にとって、自然の測定は環境報告書を充実させるためだけの作業ではない。
地域社会から「この場所で事業を続けてよい」と認められるための、社会的な事業許可にも関わる。何を壊し、何を守り、何を回復させたのか。科学的な説明ができなければ、信頼は維持できない。

オレンジ、紅茶、ビール――キリンの事業は自然の中にある
キリンホールディングスの大島健太氏は、自然を「事業の外側にあるものではなく、事業の中にあるもの」と説明した。
ビールには大麦とホップ、水、酵母が必要だ。飲料には果実や茶葉が使われる。どれも、土壌、水、微生物、受粉、気候などの生態系機能に支えられている。
かつて企業は、自然が来年も同じように存在し、同じ原料を供給してくれることを暗黙の前提にしていた。
しかし、その前提は崩れ始めている。
キリンは、2023年から2024年にかけてブラジル産オレンジが気候変動の影響を受け、調達コストに大きな影響が出た事例を紹介した。また、米国ノースカロライナ州では、2024年9月のハリケーンによる洪水でグループの醸造所が被害を受けた。
自然の変化は、遠い環境問題ではない。原料価格、工場稼働、商品供給、企業価値を揺らす経営リスクだ。
キリンは、スリランカの紅茶農園で、ネイチャーポジティブ・イニシアティブの指標を試行した。
対象は、自社工場のように直接管理できる場所ではない。「午後の紅茶」に使用する茶葉を生産する、サプライチェーン上流の地域である。
現地調査では、ドローンによる三次元地図と生態系調査を組み合わせ、176種の動植物を確認した。絶滅が懸念される種や固有種も見つかり、川沿いの区域が水を蓄え、生きものの生息地として重要な役割を担っていることが確認された。
だが、上流の自然を測るには、企業の都合だけでは進められない。
農園経営者、生産者、取引先、研究機関、非政府組織、地域住民。多くの関係者との合意と信頼が必要になる。
大島氏は、測定を実装へ移す際には、この「社会関係資本」が不可欠だと語った。
自然のデータだけを集めても、人との関係がなければ、土地利用や農法は変わらない。
ネイチャーポジティブは、自然科学だけで完結する仕事ではない。対話し、理解し合い、長期的な関係を築く仕事でもある。

2,143万本の木を、「植えた数」から「生態系の効果」へ
積水ハウスは2001年から、住宅の庭に地域の在来樹種を植える「5本の樹」計画を進めてきた。
考え方は、「3本は鳥のために、2本は蝶のために、地域の在来樹種を」。
顧客が住宅とともに庭木を購入する、事業の中に組み込まれた取り組みだ。企業の寄付や一時的な社会貢献活動ではない。
2026年1月末までの累積植栽本数は2,143万本に達した。
ただし、木を2,000万本以上植えたという数字だけでは、自然が回復したかどうかは分からない。
外来種を多く植えた場合と、その土地の鳥や蝶が利用できる在来種を植えた場合では、生態系への効果が違う。木が孤立しているか、近隣の公園、街路樹、里山とつながっているかによっても価値は変わる。
そこで積水ハウスは、シンク・ネイチャーなどと連携し、樹種、本数、位置情報と生物多様性データを組み合わせて効果を検証した。
2026年4月からは、生物多様性に配慮した植栽を設計段階で提案する「5本の樹コンパス」を全国で導入。従来型の提案と比較し、約2.6倍の生物多様性保全効果が見込まれる植栽を提案できるとしている。
測った結果を、報告書の中だけに置かない。
設計者が日常的に使う道具へ変え、次の庭づくりへ反映する。
測定、設計、販売、植栽、再測定という循環ができれば、自然の回復を事業の中で拡大できる。
積水ハウスの事例は、自然保全をビジネスから切り離すのではなく、商品を選ぶ顧客とともに実装できる可能性を示している。

地球上に、どの生態系が、どこにあるのか
企業が自然を測るには、まず現在地を知らなければならない。
その場所は、温帯林なのか、湿地なのか、草原なのか。周囲にはどのような生態系が広がり、どこで分断され、どこが劣化しているのか。
地球観測に関する政府間会合事務局のヤナ・ゲヴォルギャン氏は、世界には衛星画像や国家調査などのデータが豊富に存在する一方、世界の生態系を共通形式で参照できる地図がないと指摘した。
「森林」と一言で表しても、雲霧林、山地林、北方林、熱帯乾燥林などでは、生きもの、炭素、水、脅威への反応が異なる。
自然を正確に測るには、まず生態系の違いを識別する必要がある。
地球観測に関する政府間会合、生物多様性条約事務局、国際自然保護連合は、110の生態系タイプを共通形式で示す「世界生態系アトラス」の構築を進めている。
各国が持つ高品質な地図を統合し、データが不足する地域では、衛星観測、人工知能、現地データなどを使って補う。各国や地域の知識を置き換えるのではなく、比較可能な形でつなぐ構想だ。
この地図が整えば、企業は自社拠点や原料調達地が、どの生態系の中にあるのかを確認しやすくなる。
金融機関も、投融資先が重要な生態系とどのような関係にあるのかを判断できる。
世界生態系アトラスは、自然を上空から一方的に管理する地図ではない。
各地に散らばる知識をつなぎ、自然損失を止めるための共通の現在地を示す、地球規模のナビゲーションシステムである。

企業が持つ生きものデータを、社会の共通資産へ
地図だけでは、生きものの状態は分からない。
どの場所に、どの種が、いつ、どのくらい存在していたのか。種の変化を追うには、長期的で大量の観測データが必要になる。
地球規模生物多様性情報機構のジョー・ミラー氏は、70の加盟国に支えられる政府間組織として、科学と政策に使える標準化された生物多様性データを提供していると説明した。
企業は、環境影響評価、工場や鉱山周辺の監視、環境DNA調査、カメラによる野生動物調査などを通じ、多くのデータを保有している。
しかし、それらが企業内の報告書や許認可資料に閉じたままでは、他の研究や地域全体の評価に使えない。
ヴァーレは、アマゾン地域で得た環境DNAなどのデータを地球規模生物多様性情報機構へ提供している。パネルでは、そのデータが多数の研究論文や生物種の絶滅リスク評価に利用されたことが紹介された。
企業がデータを共有すれば、自社だけでなく、研究機関、行政、他企業、地域社会が自然の状態を理解しやすくなる。
競合企業に情報を使われる不安もあるだろう。
だが、各社が同じ地域で別々に調査し、データを抱え込めば、費用は高くなり、自然の全体像も見えない。
自然は企業の敷地境界で区切られていない。
データもまた、組織の境界を越えてつながることで価値を増す。

測定は、自然回復の証明書ではない
自然の測定が標準化されれば、企業の取り組みは比較しやすくなる。
一方で、数字を出したこと自体が、ネイチャーポジティブの達成を意味するわけではない。
森林の面積が維持されていても、生態系の状態が悪化している場合がある。絶滅危惧種が一度確認されても、その後も生息し続けるとは限らない。
植樹本数が増えても、管理されずに枯れれば効果は残らない。企業が保護区域を設けても、周辺で生息地の分断が進めば、種の個体数は減る可能性がある。
測定は診断だ。
病名を知っただけでは、患者が治らないのと同じように、自然の状態を測っただけでは生態系は回復しない。
パネルの最後に、登壇者たちは測定から実装へ進むための障壁を挙げた。
ヴァーレのパレンテ氏は、指標に科学的根拠、分かりやすさ、比較可能性、経営への有用性が必要だと指摘した。
キリンの大島氏は、原料生産地で行動を起こすために、生産者や取引先、地域との相互理解が欠かせないと述べた。
積水ハウスの井阪氏は、一社だけで取り組むのではなく、競合企業を含む業界全体へ広げる必要性を強調した。
ゲヴォルギャン氏は、乱立するデータや道具を整理し、企業が使いやすい仕組みにする必要性を指摘。ミラー氏は、組織間の協働とデータ共有を最大の機会として挙げた。


自然の測定を行動へ変える、五つの条件
ネイチャーポジティブの測定を、単なる情報開示で終わらせないためには、少なくとも五つの条件が必要になる。
1.共通指標と地域固有の指標を組み合わせる
世界共通の指標がなければ、企業や地域を比較できない。
一方で、共通指標だけでは、地域固有の希少種、文化、土地利用、水循環などを捉えきれない。
4つの共通指標を基礎としながら、その土地で重要な生きものや生態系機能を追加して測る必要がある。
2.基準年と変化を示す
現在の自然が豊かであるかどうかだけではなく、事業によって良くなったのか、悪くなったのかを確認する。
いつを基準とし、何年後に、どの程度の回復を目指すのか。継続的に追わなければ、ネイチャーポジティブの成果は判断できない。
3.測定結果を意思決定へ入れる
自然に大きな影響を与える場所では、開発計画を変更する。調達先を見直す。植栽の樹種を変える。自然再生へ投資する。
報告書に数字を載せるだけでなく、調達、設計、投融資、役員評価、リスク管理へ反映させることが必要だ。
4.地域の人と利益を共有する
自然が存在する場所には、そこで暮らし、働く人がいる。
企業が一方的に測定し、土地利用の変更を求めるだけでは協力は得られない。生産者の所得、地域の雇用、文化、生活の安全を含め、自然回復の利益を分かち合う必要がある。
5.データを社会へ戻す
企業が費用をかけて集めたデータには、研究、政策、地域保全へ活用できる価値がある。
機密情報や地域固有の知識、希少種の乱獲リスクには配慮しながら、共有できる情報を共通基盤へ戻す。
一社の測定を、社会全体の自然理解へつなげることだ。
自然を測る技術は、急速に整い始めている。
4つの共通指標。世界生態系アトラス。地球規模の生物多様性データ。企業の実証。衛星、環境DNA、人工知能、市民科学。
道具は増えている。
次に問われるのは、数字を持っているかどうかではない。
その数字を見て、何をやめ、何を変え、どこへ投資し、誰と自然を回復させるのか。
測定は、ネイチャーポジティブのゴールではない。
自然と企業が進む方向を変えるための、最初の意思決定である。
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